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カンテキ親父の鍋焼きうどん     

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人は、たった一杯の鍋焼きうどんで 自分の人生を決めてしまえることもある。

京阪神の一部の地域では、 七輪のことを『カンテキ』という。

昔、大阪市内のある町工場を経営する 『カンテキ親父』と呼ばれた名物社長が居た。

すぐに火が着くから「カンテキ」。

つまりちょっとしたことでも 烈火のごとく怒りを爆発させることから、 この社長に「カンテキ親父」というあだ名が付けられていた。

そのカンテキ親父は40年以上も前に、すでに他界している。

在は、カンテキ親父のお孫さんが社長として、 小さいながらも活気のあるその町工場を経営している。

広さんは、その町工場の社長室長だ。

学を出てこの町工場で働くようになって、 50年以上経過している。

広さんは、その町工場には無くてはならない存在。

広さんが居るから、その町工場が元気なんだと、 そんな言葉を口にする人は少なくない。

過去数十年間、町工場が経営危機を迎える度に、 広さんが陰で必死になって駆けずり回り、 人の心を動かし、人の協力を勝ち取り、 この町工場の危機を救ってきたと言われている。

広さんが中学を出て町工場で働くようになって、 数年がたった秋のこと。

取引先の社長の娘さんの結婚のお祝いにと、 カンテキ親父の命令で特大の鯛を広さんがお届けすることになった。

その日の早朝、 木箱の中に笹の葉を敷き詰めて、 その上に鯛を乗せて木箱のふたをして、 バイクの荷台にくくりつけて、 広さんはお届け先に向かった。

途中、舗装していないデコボコ道も通った。

公園の脇にバイクを停めて、トイレで用をたすこともあった。

広さんが取引先の社長のお宅に着いた時、 木箱は荷台にくくりつけられたままであったが、 特大の鯛だけが消えて無くなっていた。

広さんは心臓が止まりそうになった。

顔から血の気がまったく無くなっていた。

玄関先で顔を真っ青にしてオロオロしているその様子をお届け先のお手伝いさんが見ていた。

そしてお手伝いさんが声をかけようとすると、 広さんは慌てて元来た道をバイクで引き返して行った。

夕方になっても広さんが町工場に帰って来ない。

カンテキ親父は怒り狂っていた。

そこへお届け先である取引先の社長から電話がかかってきた。

カンテキ親父は広さんが帰ってこない事情を悟った。

陽が暮れて何時間もたった。

事務所にはカンテキ親父と事務をしているおばちゃんだけが残って居た。

電話のベルが鳴った。

かんてき親父が受話器を取った。

「・・・・・・」

無言だった。

「どあほぉー!!早よ帰って来い!!」

カンテキ親父が大声で怒鳴った。

それからすぐにカンテキ親父は事務所を出て行った。

そしてすぐにまた事務所に戻ってきた。

手には小さな土鍋と、うどん玉、たまごを1つ持っていた。

カンテキ親父は鍋焼きうどんを作り始めた。

鍋焼きうどんを作り終えると、かんてき親父は事務のおばちゃんに向かってこう言った。

「すまんけど、もうちょっと居たってな。  あいつが帰ってきたらこれ食わしたってくれ」

そう言って、カンテキ親父は帰って行った。

それから40年以上も経過している。

広さんはその時の話を話してくれるとき、 (何度も聞かせてもらったのだが・・・) 必ず涙を流しながら話してくれる。

あの日、早朝にお届け先に向かった広さんは、 夜遅く町工場に戻ってくるまで、 何も食べていなかった。

その時に食べた鍋焼きうどんは、 一生忘れられない味になった。

広さんはそれ以来、 うどんをすすんで食べることはないそうだ。

あの時のうどんよりも、おいしいうどんが あるはずがないと今でも思っているらしい。

人は、たった一杯の鍋焼きうどんで、 自分の人生を決めてしまえることもある。

 

 

 

 

 

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